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'''田中 角栄'''(たなか かくえい、[[1918年]][[5月4日]] - [[1993年]][[12月16日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。元[[衆議院議員]](16期)、[[内閣総理大臣]]([[第1次田中角榮内閣|第64代]]、[[第2次田中角榮内閣|第65代]])。
 
'''田中 角栄'''(たなか かくえい、[[1918年]][[5月4日]] - [[1993年]][[12月16日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。元[[衆議院議員]](16期)、[[内閣総理大臣]]([[第1次田中角榮内閣|第64代]]、[[第2次田中角榮内閣|第65代]])。
  

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[[Image:田中角栄 3.jpg|250px|left|thumb||田中角栄]] '''田中 角栄'''(たなか かくえい、[[1918年]][[5月4日]] - [[1993年]][[12月16日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。元[[衆議院議員]](16期)、[[内閣総理大臣]]([[第1次田中角榮内閣|第64代]]、[[第2次田中角榮内閣|第65代]])。 [[Image:田中と毛沢東 1.jpg|200px|thumb||1972年9月27日、[[毛沢東]]主席と中南海で会見]] [[Image:田中と周恩来.jpg|200px|thumb||1972年9月25日、[[周恩来]]総理と会見。田中が中国を訪問する期間、周恩来は田中と4回会談している]] [[Image:田中と毛沢東 2.jpg|200px|thumb||1972年9月27日夜、毛沢東主席は中南海で田中角栄首相、[[大平正芳]]外相並びに[[二階堂進]]内閣官房長官と会見した。会見後、毛主席は『[[楚辞集注]]』を田中首相に贈っている]] == 概略 == [[高等教育]]を受けていないという[[学歴]]で首相まで上り詰めたことから「[[太閤|今太閤]]」と呼ばれる一方、「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力や、巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家と官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。首相在任中には、[[中華人民共和国]]との間の[[日中国交正常化]]や[[日中記者交換協定]]、[[金大中事件]]、[[オイルショック|第一次オイルショック]]などの政治課題に対応。[[日本列島改造論]]で一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いたことや、金脈問題への批判によって首相を辞職。さらに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[航空機]]製造大手の[[ロッキード]]社による[[全日本空輸|全日空]]への航空機売込みに絡む収賄事件である「[[ロッキード事件]]」で逮捕され自民党を離党した。 首相退任後やロッキード事件による逮捕後も最大派閥となった田中派([[木曜クラブ]])を背景に政局に対する発言力を保ち続け、「(目白の)闇将軍」の異名を執った。 [[道路法]]の全面改正や、[[道路]]・[[港湾]]・[[空港]]などの整備を行う各々の[[特別会計|特別会計法]]や日本列島改造論による[[グリーンピア]]など、衆議院議員として100本を超える[[議員立法]]を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に後年功罪言われる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する[[建設省]]や[[運輸省]]、大臣として着任していた[[通産省]]や[[郵政省]]などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、[[族議員]]の嚆矢となった。 == 経歴 == === 小学校卒業まで === [[Image:田中角栄 1.jpg|200px|thumb||田中角栄]] [[新潟県]][[刈羽郡]]二田村大字坂田(現・[[柏崎市]])に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。田中家は[[農家]]だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。角栄の幼少年時代には家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ[[吃音]]があり、[[浪花節]]を練習して矯正した。 [[1933年]]二田[[高等小学校]]卒業。田中自身は「[[中央工学校]]」卒と明記していたが、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたこともあり、今日に至るまでこのイメージが強い。 === 上京 === [[Image:田中角栄 4.jpg|250px|thumb||田中角栄]] * [[1934年]]3月 - 上京。旧制[[海城中学校・高等学校|海城中学校]]に編入する予定だったが<ref>出典:『人間田中角栄』 馬弓良彦 ダイヤモンド社</ref>、住み込みで[[井上工業]]に働きながら、神田の[[中央工学校]]土木科に通う。途中[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]への入学を真剣に考えたこともあったが、以下のように実業の道に入った。 * [[1936年]]3月 - 中央工学校土木科を卒業。建築技師として自活。 * [[1937年]] - 「共栄建築事務所」を設立する。 * [[1939年]]4月 - 応召、[[満州国]]で兵役に就く。 * [[1940年]]3月 - 陸軍[[騎兵]]上等兵となる。 * [[1941年]]2月 - 大病を患い内地へ帰還。 * [[1941年]]10月 - 治癒と共に除隊。東京の[[飯田橋]]で田中建築事務所を開設。 * [[1942年]]3月 - 事務所の家主の娘、[[坂本はな]]と結婚。 * 1942年11月 - 長男正法が誕生(1947年9月、5歳で死亡) * [[1943年]]12月 - [[田中土建工業]]を設立。 ** 理研工業([[理化学研究所]]の産業部門)などの仕事で急成長する。 * [[1944年]]1月 - 長女[[田中眞紀子|眞紀子]]が誕生。 * [[1945年]]8月 - 日本の[[第二次世界大戦]]における敗戦。 **滞在していた[[朝鮮半島]]から引き揚げる(最後は理研工業移転の仕事で[[大田広域市|大田]](たいでん、テジョン)にいた)。田中土建工業は戦災を免れる。 === 初出馬から首相就任まで === [[Image:田中角栄 5.jpg|250px|thumb||田中角栄]] * [[1946年]]4月 - [[第22回衆議院議員総選挙|第22回衆議院総選挙]]。 ** 政治資金を献金した[[大麻唯男]]の勧めにより、[[進歩党]]公認で出馬し、落選。 * [[1947年]]4月 - [[第23回衆議院議員総選挙|第23回総選挙]]。 ** [[新潟県第3区 (中選挙区)|新潟3区]]から[[民主党 (日本 1947-1950)|民主党]]公認で出馬し、当選。 * [[1948年]]5月 - [[自由党 (日本)#民主自由党|民主自由党]]へ参加。 * 1948年10月 - [[第2次吉田内閣|第2次吉田茂内閣]]の[[法務省|法務]][[政務次官]]に就任。 * 1948年12月 - [[炭鉱国管疑獄]]により逮捕。 * [[1949年]]1月 - [[第24回衆議院議員総選挙|第24回総選挙]]で拘置所から立候補し再選される。 * [[1950年]]4月 - [[建築士法]]案を提出、成立。 **田中はこの法律による[[建築士|一級建築士]][[資格]]取得者である。 * 1950年11月 - 長岡鉄道(現[[越後交通]])社長に就任、田中土建工業は閉鎖。 * [[1951年]]6月 - 炭鉱国管疑獄で無罪が確定。 * [[1952年]]6月 - 議員立法により新[[道路法]]成立。<!-- 田中が提出者として主導。 --> * [[1953年]]4月 - [[中央工学校]]の校長に就任。(1972年に退任) * [[1954年]]5月 - [[自由党 (日本)#自由党 (1950-1955)|自由党]]副幹事長。[[佐藤栄作]]との関係が次第に深くなる。 * [[1955年]]3月 - 衆議院商工委員長。 * 1955年11月 - [[自由民主党_(日本)|自由民主党]]の結党に参加。 * [[1957年]]7月 - [[第1次岸内閣改造内閣|第1次岸信介改造内閣]]で郵政大臣に就任。 ** 戦後初めて30歳代での大臣就任。[[テレビ局]]と新聞社の統合系列化を推し進め、その強力な指導力により、現在の[[新聞社]] - [[キー局]] - [[ネット局]]体制の原型を完成させる。その過程で官僚のみならずマスコミも掌握した。特にテレビ局の放送免許(とりわけ地方局の免許)を影響下に置いたことはその後の田中の飛躍の原動力になった。 * [[1961年]]7月 - 自民党政務調査会長。 * [[1963年]]7月 - [[第2次池田内閣|第2次池田勇人内閣]]の改造で大蔵大臣。 ** [[第1次佐藤内閣|第1次佐藤栄作内閣]]まで留任。 * [[1965年]]6月 - 大蔵大臣を辞任し、自民党幹事長に就任。 * [[1966年]]6月 - [[社団法人]][[日本空手協会]]会長に就任。(1968年5月辞任) * 1966年12月 - 自民党幹事長を辞任。 * [[1968年]]5月 - 自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。 * 1968年11月 - 自民党幹事長に復帰。 * [[1969年]]4月 - 眞紀子が[[鈴木直人 (政治家)|鈴木直人]]元衆議院議員の三男、[[田中直紀|直紀]]と結婚。直紀は[[婿養子]]として田中家に入る。 * [[1971年]]7月 - [[第3次佐藤内閣|第3次佐藤栄作内閣]]の改造で通商産業大臣。 * 1971年10月 - 日米繊維交渉が決着。 * [[1972年]]5月 - [[周山会|佐藤派]]から[[木曜クラブ|田中派]]が分離独立。 * 1972年6月 - 「[[日本列島改造論]]」を発表。 * 1972年[[7月5日]] - [[佐藤栄作]]が支持した[[福田赳夫]]を破り自由民主党総裁に当選。 * 1972年[[7月6日]] - [[第1次田中角榮内閣|第1次田中角栄内閣]]が成立。 ** 初の[[大正]]生まれの首相であり史上初の新潟県出身の首相である。各種機関の[[内閣支持率]]調査で70%前後の支持を集める。なお、田中の次の大正生まれの首相は5代後の[[中曽根康弘]]。 === 首相在任時 === * 1972年9月 - 日米首脳会談後に[[中華人民共和国]]を訪問。 ** 同国の首都[[北京市|北京]]で[[周恩来]]首相や[[毛沢東]][[国家主席]]と会談。[[9月29日]]、両国の[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|共同声明]]により日中国交正常化が実現し、[[日本国と中華民国との間の平和条約|日華平和条約]]の終了を確認。同日、[[中華民国]]が対日国交断絶を発表。 * 1972年12月 - [[第33回衆議院議員総選挙|第33回総選挙]]。 ** 自由民主党過半数確保も議席減、[[日本共産党]]が躍進。[[12月22日]]、[[第2次田中角榮内閣|第2次田中角栄内閣]]発足で挙党一致体制へ。 * [[1973年]] - 地価や物価の急上昇が社会問題化。 * 1973年5月 - 小選挙区導入(小選挙区比例代表並立制)を提案。 ** 野党と世論の猛反発を浴びて撤回に追い込まれた([[カクマンダー]]と称された)。 * 1973年8月 - [[金大中事件]]発生。 ** 当時の[[朴正煕]]政権を支持するとの立場から、主権侵害との批判を介さず[[大韓民国|韓国]]側の一方的な政治決着を受け入れ、批判された。この時毅然と対応していれば、[[北朝鮮による日本人拉致問題|北朝鮮拉致事件]]は起きなかったという評もある。 * 1973年9月 - [[西ヨーロッパ]]訪問。 * 1973年10月 - [[ソビエト連邦]]訪問。 ** [[日ソ共同宣言|日ソ国交回復]]時の[[鳩山一郎]]以来であり、[[レオニード・ブレジネフ|ブレジネフ]][[ソビエト連邦共産党|共産党]]書記長との会談において、「両国間にある未解決の問題の中に[[北方領土|北方四島]]の問題が含まれる」という事を確認する日ソ共同声明を発表したが、領土問題についてはそれ以上の成果はなかった。一方、経済協力については[[シベリア]]開発などでの進展が見られた。 * 1973年[[10月16日]] - [[第四次中東戦争]]から[[オイルショック|第一次オイルショック]]が発生。 ** [[中東]]政策を[[イスラエル]]支持から[[アラブ諸国]]支持に転換すると共に中東地域以外からのエネルギーの直接確保に努めた。なお、田中の支持者の大陸派の間ではこれがアメリカの石油資本の不興を買い、後のロッキード事件による事実上の失脚につながったとする陰謀説を唱える者もいる。 * 1973年11月 - [[第2次田中角榮内閣第1次改造内閣|第2次田中角栄内閣第1次内閣改造]]。 ** 福田赳夫が大蔵大臣就任。需要抑制・省エネルギー政策へ転換し、電源開発促進税法等電源3法を成立させ[[柏崎刈羽原子力発電所]]への[[補助金]]へ当てる。 * [[1974年]]1月 - [[東南アジア]]訪問。 **[[インドネシア]]の首都[[ジャカルタ]]で反日デモに遭遇する。 * 1974年7月 - [[第10回参議院議員通常選挙|第10回参議院選挙]]。 ** 大敗し、与野党伯仲状態になる。[[三木武夫]]や福田赳夫が閣外へ去る。 *1974年9月 - [[メキシコ]]訪問。 **[[日墨学院|日本メキシコ学院]]の設立のための援助資金を持ち、 [[ルイス・エチェベリア・アルバレス|エチェベリア大統領]](当時)との会談の結果、「両国民の相互理解のために画期的な重要性を有するものであって、早期建設を支援する」旨の共同声明を発表。 * 1974年10月 - 月刊誌[[文藝春秋_(雑誌)|文藝春秋]]で「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」が掲載。 ** [[立花隆]]らが金脈問題を追及する。 * 1974年11月 - 国会での追及を受け、[[第2次田中角榮内閣第2次改造内閣|第2次田中角栄内閣第2次内閣改造]]後に総辞職を表明。 * 1974年[[12月9日]] - 内閣総辞職。 ** [[椎名裁定]]により[[三木内閣|三木武夫内閣]]発足。首相在職通算日数は886日。 === 首相退陣後 === [[Image:田中角栄 2.jpg|250px|thumb||引退表明後、娘の真紀子(左)とお国入りし、支持者らの出迎えに涙ぐむ田中角栄元首相=平成元年年12月3日]] * [[1976年]] - [[ロッキード事件]]発生。 **アメリカ上院の外交委員会で、[[ロッキード]]社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。[[7月27日]]に、同社による[[全日本空輸]]に対する売りこみ、いわゆる[[ロッキード事件]]における5億円の[[賄賂罪#収賄罪|受託収賄罪]]と[[外国為替・外国貿易管理法]]違反の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕される。首相経験者の政治家が逮捕されるのは[[昭和電工事件]]の[[芦田均]]以来。逮捕時に自民党を離党し、以後無所属に。8月に保釈。 * 1976年12月 - [[第34回衆議院議員総選挙|第34回総選挙]]。 **トップ当選するが、自民党は大敗し、三木武夫内閣は総辞職、[[福田赳夫内閣]]発足。 * [[1978年]]12月 - [[第1次大平内閣|第1次大平正芳内閣]]発足。田中が強く支持。 * [[1979年]]10月 - [[第35回衆議院議員総選挙|第35回総選挙]]。 **トップ当選するが、自民党は大敗し、その後の「[[40日抗争]]」で田中は[[大平正芳]]を支持。党分裂の危機へ。 * [[1980年]]6月 - [[第36回衆議院議員総選挙|第36回総選挙]]。 **参議院とのダブル選挙。トップ当選し、自民党も圧勝。その後の[[鈴木善幸内閣]]発足を支持。この時、同じ新潟3区から、元[[越山会]]青年部長の[[桜井新]]が自民党公認で初当選。 * [[1982年]]11月 - [[上越新幹線]]暫定開業([[大宮駅 (埼玉県)|大宮]] - [[新潟駅|新潟]])。 * 1982年11月 - [[第1次中曽根内閣|第1次中曽根康弘内閣]]発足。 ** 田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。 * [[1983年]]10月 - ロッキード事件の一審判決。 ** [[東京地方裁判所]]から[[懲役]]4年、追徴金5億円の実刑判決を受け、即日[[控訴]](「不退転の決意」)。 * 1983年12月 - [[第37回衆議院議員総選挙|第37回総選挙]]。 ** [[11月28日]]に衆議院解散([[田中判決解散]])。22万票の圧倒的支持を集めて当選。田中批判を唱えて新潟3区から立候補した前参議院議員の[[野坂昭如]]は落選。直紀も[[福島県第3区|福島3区]]から初当選。ただし、自民党は大敗し、[[中曽根康弘]]総裁が「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」声明を発表。 * [[1984年]]10月 - 自民党総裁選。 ** 田中派(木曜クラブ)会長の[[二階堂進]]副総裁を擁立する構想が起こり、田中は中曽根再選を支持。12月、田中派内の中堅・若手により、[[竹下登]]を中心とした「[[創政会]]」の設立準備が進められる * [[1985年]][[2月7日]] - 創政会が発足。 * 1985年[[2月27日]] - [[脳梗塞]]で倒れ入院。 ** 言語障害や行動障害が残り、政治活動は不可能に。 * 1985年6月 - 田中事務所が閉鎖。 * 1985年9月 - ロッキード事件控訴審開始、田中は欠席。 * 1985年10月 - [[関越自動車道]]全通。 * [[1986年]]7月 - [[第38回衆議院議員総選挙|第38回総選挙]]。 ** トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。 * [[1987年]]7月 - 竹下が[[平成研究会|経世会]]を旗揚げ。 ** 田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。 * [[1987年]]7月 - ロッキード事件の二審判決。 ** [[東京高等裁判所]]は一審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中側は即日[[上告]]。 * 1987年10月 - 竹下が田中邸を訪問。 ** 眞紀子に門前払いされる。後に[[皇民党事件]]として表面化。 * 1987年11月 - [[竹下内閣]]が発足。 * [[1989年]]10月 - 直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。 * [[1990年]][[1月24日]] - 衆議院解散により政界を引退。 ** 衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。 * 1990年2月 - [[第39回衆議院議員総選挙|第39回総選挙]]。 ** 元越山会員で前[[小千谷市]]長の[[星野行男]]が自民党公認で当選。 * [[1992年]]8月 - 中国訪問。 ** 中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。 * 1992年12月 - 経世会が分裂。 * [[1993年]]7月 - [[第40回衆議院議員総選挙|第40回総選挙]]。 ** 眞紀子が自らの選挙区だった新潟3区から無所属で出馬し、初当選。角栄自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党。選挙で過半数を下回った自民党は下野し、元田中派所属の[[細川護熙]]による[[細川内閣|非自民8党連立内閣]]が発足。 * 1993年12月16日 - 75歳で死去。 ** [[戒名]]は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県[[柏崎市]](旧[[西山町]])田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で[[公訴棄却]]となる。 === 没後 === * [[1995年]]2月 - 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、[[最高裁判所]]が田中の5億円収受を認定する('''首相の犯罪''')。 * [[1998年]]4月 - 田中角栄記念館が新潟県[[柏崎市]](旧[[西山町]])に開館。 * [[2000年]] - [[朝日新聞]]の「この1000年の『日本の政治リーダー』読者人気投票」で、[[坂本龍馬]]、[[徳川家康]]、[[織田信長]]に次いで第4位の得票を得る。 * [[2007年]][[7月16日]] - [[新潟県中越沖地震]]で墓石が倒壊する。 == 人間関係 == [[大平正芳]]とは長らく盟友関係にあり、田中の首相就任の際には大平の協力が、大平の首相就任の際には田中の支援があった。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが二人の間で交わされており、大平は自派([[宏池会]])からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた。[[日中国交正常化]]交渉の実務を取り仕切り、日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた。 党人派[[川島正次郎]]副総裁と田中は佐藤内閣で近い関係にあり、長期佐藤政権を作ることで川島は田中の総理への道を切り開いた。 一方、官僚出身政治家として対極にあった[[福田赳夫]]や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した[[三木武夫]]とは激しく対立した。特に福田との「[[角福戦争]]」は、[[第2次大平内閣]]時に総理大臣指名選挙での党分裂状態や不信任案の[[清和政策研究会|福田派]]欠席による可決までエスカレートした。 正妻・はなとの間には1男1女を儲けたが、長男の正法は夭折し、成人したのは長女の眞紀子のみだった。はなは病弱のため、田中が首相の時には眞紀子が[[ファーストレディ]]の役目を代行した。角栄と眞紀子は「一卵性親子」とも呼ばれた。眞紀子は父親を崇拝する余り、現在でもロッキード事件を否定したり、父親の不名誉である(と眞紀子が信じている)愛人・隠し子の存在に関しても相手側を激しく批判するなど、数々のトラブルを起こし続けている。 東京・[[神楽坂]]の[[芸者]]、[[辻和子]]との間に2男1女がいる(1女は夭折、2男は田中の子として認知されている)。彼女らは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。二男の京は音楽プロデューサーやバー経営者で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した。眞紀子は、辻や腹違いの兄弟たちがこの世に存在している事自体を快く思っておらず、父・角栄の葬儀の際、彼らの焼香さえも決して許さなかったなど、その憎悪には凄まじいものがある。更に、神楽坂という土地すらも激しく嫌っており、角栄亡き今も「神楽坂なんて大嫌いだ。近付きたくもない。」と周囲に語っている。また秘書であった[[佐藤昭子]]との間の1女は認知されていない田中の子供とされている。 2575坪(約8500㎡)の敷地を誇る東京都[[文京区]][[目白台]]の自邸は「目白御殿」と呼ばれ、政財界の要人が常時ここを訪れたことから「目白詣で」いわれた。この当時、政治用語で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。 [[中華人民共和国]]からは「[[日中国交正常化|日中国交回復]]を決断した偉大な政治家」として尊敬され、[[トウ小平|<span lang="zh">鄧</span>小平]]が[[1978年]]に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も多くの中国政府の要人が田中邸を訪問した。田中家と中華人民共和国政府の友好関係は、「最初に井戸を掘った」角栄の死後も眞紀子が継承している。 経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中が「刎頸の友」と呼んだ[[国際興業]]の[[小佐野賢治]]は、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。この事件では小佐野を介して[[右翼団体]]の大物活動家である[[児玉誉士夫]]との接点が指摘された。この方面の人脈については今でも不透明な部分が多い。 == 派閥 == [[木曜クラブ|田中派]]は自民党内最大の派閥であり、最盛期では約130人の国会議員が所属していた。その中には、[[二階堂進]]、[[金丸信]]、[[竹下登]]などの当時の党幹部が含まれ、中堅には後に[[竹下派七奉行]]と呼ばれた[[羽田孜]]・[[橋本龍太郎]]・[[小渕恵三]]・[[小沢一郎]]・[[梶山静六]]・[[奥田敬和]]・[[渡部恒三]]、他に[[綿貫民輔]]などであった。なお、小沢は早世した正法と同じ1942年生まれで、田中は特に小沢をかわいがったとされる。その後、七奉行の中で羽田・小沢・奥田・渡部の4人は自民党から離党し、[[民主党_(日本 1998-)|民主党]]への流れを作った。 派閥の肥大化、権力の掌握にあたって非常に機能的に組織されていたのが[[秘書]]集団であった。それが最も機能的に働いたのが第1次大平正芳内閣発足前夜の自民党総裁予備選であった。当初、現役総理の福田は「予備選に負けた側は本選を下りるべき」と明言するほど党員票の差があると見られていた。大平を推す田中派は[[後藤田正晴]]の指示の下、秘書集団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を展開することによって結果は逆転、一転福田を本選辞退に追い込んだ。有名なところでは金庫番と言われた[[佐藤昭子]]、スポークスマン的な役割を担った[[早坂茂三]]、選挙戦を新潟から支えた国家老[[本間幸一]]、目白にあって城代家老と言われた[[山田泰司]]、総理大臣秘書を努めた[[榎本敏夫]]などがいる。しかし、角栄が倒れた後は眞紀子によって遠ざけられた者も少なくない。 ロッキード事件による逮捕で自民党を離党した後も党内最大派閥の実質的な支配者として君臨し、「闇将軍」と呼ばれた。自派からの自民党総裁選立候補を許さず、内閣総理大臣の権威を失墜させ、日本の政治権力構造を不透明なものにしたが、配下(子分)からの不満が起こり、最終的には竹下登の離脱で田中派が崩壊した。 典型的な党人派政治家であったが、多くの官僚出身者も迎え入れた。特に自分の内閣で[[内閣官房副長官]](事務担当)を務めた元[[警察庁長官]]の後藤田正晴は重用され、田中が倒れた後も自民党政権の中枢に座り続けた。 [[芸能|芸能界]]からも積極的にスカウトを行い、参議院選挙では全国区で[[山口淑子]](大鷹淑子、李香蘭)、[[山東昭子]]、[[宮田輝]]などを当選させた。また、田中からの勧誘を断った芸能人に対しては、他党からの出馬をしないように言い含めたともされる。 == 選挙区 == [[Image:Kakuei Tanaka-statue 1 S.jpg|thumb|175px|JR[[浦佐駅]]の駅前広場に建つ田中の銅像]] 自らの選挙区である新潟県への社会基盤整備には特に熱心だった。「'''雪国と都会の格差の解消'''」「'''国土の均衡ある発展'''」を唱え、[[関越自動車道]]や[[上越新幹線]]のような大規模事業から、[[長岡市]]や[[小千谷市]]などの都市部での融雪装置設置や、山間部の各集落が冬でも孤立しないためのトンネル整備([[小千谷市]]の塩谷トンネル等が知られる。当時戸数60戸の集落に10億円の建設費用を掛けて建設された為、反発も少なからずあった)等の生活密着型事業や[[柏崎刈羽原子力発電所]]誘致など、多様な[[公共事業]]を誘致した。さらに自身のためのテレビ番組も持ち、選挙民の陳情を番組で直接吸い上げると共に、業績を強烈にアピールした。 選挙区の旧新潟3区の全市町村で結成された後援会組織「'''[[越山会]]'''」は、鉄の団結と評された。越山会は、建設業者による公共事業受注と選挙の際の田中への投票という交換取引の場ともなり、地域住民の生活向上に大きく貢献する有効な組織となった反面、自民党政治の典型である利益誘導や金権体質への強い批判を受け、公共事業へ過度に依存したいびつな産業構造も残した。これらの公共事業の実施に際しては、長岡市の[[信濃川]]河川敷買収・利用問題などで自らや親族が役員を務める「ファミリー企業」への利益供与が疑われ、金脈問題への追及を受けることになった。しかし、ロッキード事件後も、越山会は田中に圧倒的な得票での当選を続けさせて、中央政界での政治的影響力を与え続けた。 自らの選挙区で後継者を定めることはなく、自らがトップに君臨し続けたため、桜井新の離反などが起こった。1990年の引退時には越山会を解散し、自主投票となったが、1993年の総選挙では旧越山会会員の多くが眞紀子を支持した。眞紀子の当選後にお国入りした際「目白の骨董品が参りました」と紹介された。 上越新幹線の[[浦佐駅]]([[南魚沼市]])東口には、田中の巨大な[[銅像]]が建立されている([[1985年]]除幕)。[[二階堂進]]が揮毫した。2005年「冬に雪をかぶって可哀相だ」との眞紀子からの要望によって銅像の上には新たに屋根が設けられた。一方、自ら校長も務めた母校の[[中央工学校]]が校内に銅像を立てようとした際には、「学校に政治を持ち込むのは良くない。自分は母校のために何もしていない」と言いこれを断っている。 == 外交 == [[Image:Arrival ceremony for Prime Minister Kakuei Tanaka of Japan.gif|thumb|300px|[[ホワイトハウス]]でニクソン大統領と会談]] 1972年1月に[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]大統領が中華人民共和国を訪問したこと、[[三木武夫]]が総裁選における田中支持の条件として日中国交「回復」を条件としたことなどにより、日中国交回復への決断を早急に行った。この際に中華人民共和国と対立する[[中華民国]]と断交したことと、中華人民共和国政府に対し無期上限無しの支援を決定したことに対する批判は今も根強くある(「敵」との急な国交断絶を一方的に行なった結果として[[中華民国]]政府に日本企業の資産を没収され、政府は企業に対して莫大な補償を行った)。また、中華人民共和国との国交樹立の際、中華民国政府との断交は今に至るまで絶対条件である(例:コスタリカ・韓国等)。 日中国交回復は田中による最大の政治的業績と現在も中華人民共和国政府に見なされ、「最初に[[日中外交]]の井戸を掘った恩人」と呼ばれる。生粋の[[大陸派]]である田中の意図としては、これを「裏安保」と呼び、アメリカと中国を天秤にかけて、アメリカ従属体勢からの脱却を模索したものであったが、その意図は達成されたとは言えない状況である。また、[[ヘンリー・キッシンジャー]]をして「裏切り者」と言わしめ、アメリカを怒らせる結果にもなった。後のロッキード事件は、これを原因としてアメリカが田中を失脚させたという説もある(上述の通り異説もある)。 また、[[北方領土]]交渉に関しては[[ブレジネフ]]に「未解決か?」と聞き、ブレジネフは「ダー(イエス=解決である)」と答えた。 [[北朝鮮]]に対しては、[[1973年]]に[[金日成]]の提案した[[朝鮮統一問題|祖国統一]]5大綱領を支持するなど融和的であり、地元である[[新潟県]]で起きた[[北朝鮮による日本人拉致問題|拉致問題]]に対しても無関心であった。{{要出典}} また、日本国首相として初めてアメリカ大統領の訪日を実現させている。 == 野党との関係 == 議員活動が長く、議員立法などで野党との協力を行う場面も多かった。[[民社党]]との間で、1965年の「日韓国会」([[日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約|日韓基本条約]]承認)から[[春日一幸]]とのパイプがあった。 [[1969年]][[11月]]、政治評論家[[藤原弘達]]が[[創価学会]]と[[公明党]]の[[政教一致]]を批判する『創価学会を斬る』を出版したが、創価学会と公明党はこの著作に対し出版以前から[[出版社]]・[[書店]]などに圧力をかけた(「[[言論出版妨害事件]]」)。その際田中は藤原に対し「公明党は議席さえ与えておけばご機嫌な連中だ。あまり絡むな」と忠告したと言う。藤原はこうした田中の姿勢を問題視し、「創価学会・公明党の本質を直視していない」と批判している。田中は社会党の勢力を相対的に弱めるため創価学会と公明党には甘い態度をとり続けたと言われ、田中派所属議員の中にも公明党議員と親密な関係を持つ者が少なくなかった。 その甲斐あって後に、公民両党が定数5の新潟3区で長年に亘り候補を擁立せず、事実上の角栄支援=選挙協力をした。 新潟では戦前の農民運動の影響で[[日本社会党]]の力が比較的強く、革新系首長・議員も多くいたが、田中はこれらとも別け隔てなく接し協力も惜しまなかった。そのため、中央政界で社会党が田中批判を行っても、新潟ではそのトーンが落ちるという指摘もあった。 == 闇将軍 == ロッキード事件による逮捕され自民党を離党した後も、田中は田中派を背景に政界影響力を維持し続け、「闇将軍」とも呼称された。特に[[大平正芳]]、[[鈴木善幸]]、[[中曽根康弘]]の首相就任には田中の支持が不可欠であった。また閣僚人事にも関与し、法務大臣にはロッキード事件との絡みもあり田中に近い議員を起用させ続けた。しかし、選挙における自民党の低迷と新潟3区での田中自身の大量得票という二律背反した結果も招いた。[[1985年]]に病床に就くとその力は急速に失われた。 == 角栄語録 == *「[[三国峠 (群馬県・新潟県)|三国峠]]を[[ダイナマイト]]でふっ飛ばせば新潟に雪は降らない。そしてその土を[[日本海]]に運んで[[佐渡島|佐渡]]と陸繋ぎにしよう」 *「政治は数であり、数は力、力は金だ」 *「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」 *「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」 *「中国国民全員が手ぬぐいを買えば8億本売れる」(日中国交正常化の際の発言) == その他 == <!--* 歴代[[内閣総理大臣]]で初めて[[血液型]]がB型であった(他 竹下登 安倍晋三)。--><!--不確実 + 田中本人の事績とは無関係--> *演説や答弁を始める時「まぁーこのー」と前置きしてから話を始めることがあり、現在でも田中の演説のものまねをする際、この前置きの言葉が使われることが多い。 * [[バセドウ病]]の持病があった。 * [[六法全書]]を隅から丸暗記して、覚えたページは破り捨てたという(食べた、ともいう)。 * [[馬主]]として長女の眞紀子から名を取った[[マキノホープ]]、マキノカツラ、マキノサクラ、マキノスガタなどの馬を所有していた。 *軽井沢の別荘で田中の番記者を集め「俺の不愉快になることを書くな、俺はお前達の首はいつでも切れる。俺は権力の近くに長くいたから、マスコミの弱みを全て知っている」と恫喝をしたことがある。その場にいた番記者は苦笑したりするだけで記事にしなかった。この軽井沢放言事件を正面から取り上げたのは文芸春秋と週刊現代だけである。 * [[中曽根康弘]]を「遠目の[[富士山]]」「出たがり屋の婆芸者」「なるものになったらお前らなんか見向きもしない。天井向いて歩く」、[[橋本龍太郎]]を「備前長船の風切り小僧」「あのタイプは切れるが人に好かれない」宮澤喜一を「英語屋」「あれは一流の秘書官で政治家じゃない」「金襴緞子のお姫様」、小渕恵三を「光平さんの倅は目立たない男だ。ビルの谷間のラーメン屋。なかなかやるねぇ。」[[池田大作]]を「ありゃ[[法華経]]を唱える[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]だ」などと言うなど、毒舌ながらも決して的外れではない人物評で知られた。 *自派閥のメンバーには絶対的な服従を強いる強権的な姿勢が目立った反面、敵対する勢力に対しては最後まで追い詰めることは避け、しばしば苦境に立った政敵に救いの手を差し伸べた。<!--これは人心掌握のための戦略とも、苦労の多い前半生を送った田中個人の性格のゆえとも言われる。--> * [[小室直樹]]の著作を愛読し、これを高く評価していた。小室は[[ロッキード事件]]の際「田中無罪論」を展開したが、それ以前からの読者である。 * 馬喰(ばくろう、馬商人)の家出身のせいか、味付けの濃い食べ物を好んだ。日中国交樹立の際に、中国側にお気に入りの味噌汁とあんパンを出された事が中国側への破格の譲歩につながったとも言われる。そのため首相在任中は常に[[ミネラルウォーター]]を持ち歩いていた。 *全国の選挙情勢をくまなく把握していたことで知られ、その見通しは滅多に狂わなかったという。 <!--*一説では、[[昭和天皇]]は田中を蛇蝎のごとく嫌っており、テレビに彼の姿が映る度に、侍従の[[入江相政]]にチャンネルを変える若しくはテレビを消すように命じていた、と言われている。--><!--出典は?--><!--*お笑いコンビ、[[ダウンタウン]]の[[浜田雅功]]は、尊敬する人物として田中を挙げており、[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!]]にて、生まれ変わったら田中になりたいとまで発言している。--><!--田中本人の事績とは無関係--> *[[家紋]]は[[かたばみ|剣片喰(かたばみ)]]である。 *苦学生である角栄は教育問題、とりわけ公立教育の重要性を認識しており、首相在任時には公立学校の教員の給与を引き上げたり、教員の地位や質の向上を図ることに努めた。しかしながら[[日教組]]は教員の給与が上がれば[[労働争議]]の[[大義名分]]がなくなるとしてこの政策に強く反発した。 <!--*派が分裂した事もあり見舞いに訪れる人間は年々激減し、死後に至っては田中軍団の政治家のうち殆どは彼岸や盆の墓参りに訪れる事も稀であったという。ただし非田中派の[[小泉純一郎]]は度々角栄の墓参りに訪れたと[[田中真紀子]]がかつて演説等でよく述べていた。--><!-- ??? 要推敲、意味がよく分かりません--> *[[1957年]]12月31日、[[第8回NHK紅白歌合戦]]に審査委員として出演した(当時、[[郵政大臣]])。 *総理大臣を務めたことがあるにも関わらず、勲章を受章していない([[ロッキード事件]]の影響かと思われる。なお、[[リクルート事件]]に関与した総理大臣は受賞している([[竹下登]]・[[中曽根康弘]]・[[橋本龍太郎]]など))また、[[昭和天皇]]は田中には好意を持っていなかったという。 *日本文芸社発行の週刊漫画ゴラクに連載された、「柳都物語」は田中角栄をモデルにした物と思われる。 == ニックネーム、渾名 == *「今太閤」 - 本人は[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]の戦国三傑において信長を理想としており、自分が秀吉に擬えられることは好んでいなかった([[太閤]]、豊臣秀吉参照)。 *「コンピューター付きブルドーザー」 *「角さん」 *「自民党周辺居住者」 *「目白の闇将軍」 *「[[キングメーカー]]」 == 一族 == === 家族・親族 === *長女: [[田中眞紀子]](衆議院議員) *婿養子:[[田中直紀]](参議院議員) *甥:  [[山科薫]]([[AV男優|AV男優・監督]])※実際には辻和子の甥。 == 田中角栄関連の映画・オリジナルビデオ == *『[[日本の首領|日本の首領 野望篇]]』([[1978年]]、[[東映]])、平山英格のモデルは、田中角栄。平山英格役は、[[金子信雄]] *『[[日本の首領|日本の首領 完結篇]]』(1978年、東映)、平山英格のモデルは、田中角栄。平山英格役は、金子信雄 *『[[日本の黒幕]]』([[1979年]]、東映)、平山栄吉のモデルは、田中角栄。平山栄吉役は、[[金田龍之介]] == 田中角栄を題材にした楽曲 == *「田中音頭」(歌:[[三波春夫]])‐1972年発表。 == 脚注 == <references/> == 関連人物 == *[[吉田茂]] *[[池田勇人]] *[[佐藤栄作]] *[[福田赳夫]] *[[椎名悦三郎]] *[[大平正芳]] *[[中曽根康弘]] *[[小佐野賢治]] *[[佐藤昭子]] *[[早坂茂三]] *[[竹下登]] *[[小沢一郎]] *[[二階堂進]] *[[石破二朗]] *[[川島正次郎]] *[[保利茂]] *[[橋本登美三郎]] *[[愛知揆一]] *[[松野頼三]] *[[江崎真澄]] *[[木村武雄]] *[[山下元利]] *[[小坂徳三郎]] *[[大野市郎]] *[[白洲次郎]] *[[木村禧八郎]] *[[ジェラルド・フォード]] *[[ヘンリー・キッシンジャー]] == 関連項目 == *[[日中国交正常化]] *[[親中派]] *[[三角大福]] *[[佐藤派五奉行]] *[[越後交通]] *[[新潟総合テレビ]] *[[砂防会館]] *[[大蔵大臣アワー]] *[[木曜クラブ]] *[[マキノホープ]] *[[自由民主党総裁]] *[[吉田13人衆]] *[[長岡ニュータウン]] *[[周山会]] *[[新潟県立近代美術館]] *[[グリーンピア]] *[[公的年金流用問題]] *[[日本列島改造論]] *[[同志クラブ]] *[[第1次田中角榮内閣]] *[[第2次田中角榮内閣]] *[[第2次田中角榮内閣第1次改造内閣]] *[[第2次田中角榮内閣第2次改造内閣]] *[[日中記者交換協定]] *[[政府開発援助]] == 外部リンク == *[http://www.hrr.mlit.go.jp/chokoku/tour/michinoeki/nishiyama/index.html (財)田中角榮記念館]([[道の駅]]・西山ふるさと公苑内) {{日本国歴代内閣総理大臣 |当代=[[第1次田中角栄内閣|64]]・[[第2次田中角栄内閣|65]] |在任期間=1972年 ‐ 1974年 |前代=63 |前首相名=佐藤栄作 |次代=66 |次首相名=三木武夫}} {{経済産業大臣}} {{財務大臣}} {{DEFAULTSORT:たなか かくえい}} [[Category:日本の内閣総理大臣]] [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:日本の衆議院議員(1947-)]] [[Category:新潟県の政治家]] [[Category:ロッキード事件]] [[Category:冷戦に関わった人物]] [[Category:馬主]] [[Category:1918年生]] [[Category:1993年没]] [[en:Kakuei Tanaka]]